『カラ元気』のこと
男山克弘(本誌編集顧問)
 
「カラ元気」第2号(提供 上野 公氏)
 昭和六十二年、北海道教育大学函館分校近代文学研究室、室長吉田敬三氏や男山克弘氏により創刊。予告版を含め全三冊。本誌「青い花」誕生への大きな原動力になった。同人の幾人かは本誌に合流。旺盛な文芸活動を続けている。本誌の先駆けとして、伝説の同人誌となっている。 (編集長)
 
 「青い花」が第十号の上梓を迎えた。まことに慶賀すべきことです。関係者各位のみなさま、おめでとうございます。
 さて、本誌の肝入りである宮川高宏氏より「カラ元気」について寄稿せよ、とのお達しがありました。はたして氏のご希望にお応えすることができるかどうかわかりませんが、まずは試みてまいります。
 今、手元にある「カラ元気」創刊号を繰ってみると、まず第一に「はじめに・・・」と題して吉田敬三さんが巻頭文を掲載していらっしゃる。日付は「昭和六十二年二月二日」とある。十三年前のことである。ただし、それ以前に予告版を出しているので、さらに遡ってみたい。
 敬三さんが同人誌の構想を抱き、ぼくに声をかけてくださったのは、たぶんぼくがまだ一年目の終わりか二年目の初めくらいのことだったのではないか。ぼくが近代文学研究室、略して近文、いわゆる国三に入った時の室長が敬三さんだった。この年、国語科にはさまざまなことがあった。無数に開かれた各コンパにおけるすさまじい愉しさなどは今も忘れられない青春の傷跡である。その他のことは、書くとその思い出が減りそうなので書かない。いや書けないことも数々ある、ということでもある。
 それはともかく、敬三さんは室長で二年目、ぼくは一年目。昭和五十九年のことである。夏くらいからよく飲みに連れていってくださった。
 そんなある夜のことである。二人で少し飲んで居酒屋から出ると、敬三さんとぼくは路上にうごめく妙な光景を目の当たりにした。熊が犬に喰われていたのである。その時は、なぜか二人とも哄笑に及んだのだった。人間は真の恐怖に遭遇すると笑うほかはないのであろう。「笑い」の専門家を自負していただけに、予想もしなかった恐怖から生まれる笑いのすさまじさに強い衝撃を受けた。卒業論文に「内田百閨vを選ぶことの必然はこのとき生起したのだった。
 物にならなかった研究のことはともかく、そのようなことがきっかけとなって敬三さんとの飲み会は回を重ねた。なぜか、ラクダを見るために札幌に行ったり、オシラサマを見るために遠野に行ったりもした。敬三さんが詩を書いていることを知るのはまもなくのことであった。師匠は中原中也を読んでいた。それから高橋新吉のことを教えてくださった。棟方志功や高橋竹山についても教わった。わが師匠の芸術精神はいつ爆発してもよい状態になっていた。
 ぼくの方は内田百閧竄辜tェデリコ・フェリーニやらと妙な世界に心が迷い込んでいた頃だったので敬三さんの芸術志向には共感した。そうして、発表の場としての同人誌の構想が自然に生まれた。
 「カラ元気」予告版はガリ版印刷である。敬三さんとぼくはもちろん活字印刷を希望していた。しかし、そのころはワープロの印字もそれほどよいものではなく、廉価の印刷はできないものかと、印刷会社を訪ねたり、和文タイプライターの可能性も模索したりした。しかし、結局「カラ元気」予告版はガリ版印刷となった。大学の演習プリントもそのころはガリ版であった。そんな時代のことだった。
 「カラ元気」というタイトルこそ謙虚だが、そのころの意気込みは壮んであった。予告版の完成記念の合評会は祝杯とともに行われた。執筆した同人はもちろん、安東先生と古典研究室の下西善三郎先生にもご出席いただいた。ぼくが敬三さんの詩における「鬼」の新鮮な解釈を称揚すると、下西先生が異論を投げかけてこられたことを記憶している。安東先生による作品評、ぼくらよりもはるか以前の先輩たちの文学活動についてのお話など、祝杯を重ねながらの情熱的な語りにぼくらは幸福な時間を過ごしていた。「カラ元気」とは、祝祭のことだったと思う。文学の好きな数々の個性がなぜかシンクロしていた。その爆発の場としての祝祭が「カラ元気」だったのだ。
 祝祭としての「カラ元気」は「編集顧問」なる妙な肩書きをもつぼくのせいで廃刊となった。汗顔、そして多謝あるのみ。
 さて、「青い花」である。すでに十集めである。今後ますますの発展を期待している。宮川の話によれば、本誌の成立の背景には「カラ元気」の存在もあるということだ。うれしい話でもある。さらによい文芸誌に成長することを願ってやみません。(了)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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