遼士
宮川高宏
 
 「今日かもしれない・・・。」
 仕事の出掛けに、妻がそう言った。
 予定日までは三日あったが、未明から痛みを覚え、眠れなかったと言う。案の定、一時間ほどすると電話が来て、私は家へ向かった。
 車に乗り込み、病院へ向かう。見渡す限り真っ白な平原の一本道の農道を、慎重かつ敏速に車を走らせる。車内は静かだった。平時なら所狭しと車内で遊び回る大誠も、聞き分けよく妻の小脇に抱かれている。無言の父母の様子に、幼いながらも何か察しているのだろう。
 受け付けを済まし、妻は分娩室へ入った。
「十二時くらいに呼びますから。」
 と看護婦に言われはしたが、なかなか部屋の前から立ち去ることはできなかった。大誠を抱きながら、しばらく部屋の前をうろうろしたものの、父子二人がこうしていたところで、どうなるものでもない。一階ホールの遊技スペースで大誠を遊ばせる。時間はなかなか進まなかった。
 そうしているうちに、看護婦が呼びにきた。二階に上がり分娩室前で大誠を別れる。離れるのを嫌がり、泣いている大誠を看護婦に預ける。妻も大誠も、そしてやがて生まれてくる遼士もそれぞれが頑張っているのに、自分だけが涙も痛みもなく、こうして立っていることをふと自覚しながら、自動ドアは開いた。
 薄明るい分娩室の中は、すでに生命の誕生の佳境に入っていた。
 妻はもうベッドに横たわり、出産の呼吸法を行っていた。
「ヒ、ヒ、フウー。ヒ、ヒ、フウー。」
 妻の手を握りしめ、少し汗ばんだ額に手を当てる。私が来たことに対する大きな反応はない。ただひたすら、出産の苦痛に耐えているのだろう。頬の紅潮が激しい。握った手からの脈絡が、私とは何のつながりもないふうに、思いがけない速さでトクトクと搏っている。
「ヒ、ヒ、フウー。ヒ、ヒ、フウー。」
 妻の腰の辺りに張られた幕の向こうから、医者と助産婦がこちらに声をかける。
「今、頭が少し出てますから、次でいきますよ。」
「さあ、次ですよ。頑張って。」
 早い段階からの立ち会いを想像していた私は、いきなりの場面に少し動揺していたが、何故か気持ちの高ぶりはなかった。
 もうすぐ新しい生命が誕生する。
 自分で、いや私と妻で招いた生命だ。何も高ぶることはない。こんなに明瞭に、生命の誕生のありようを目のあたりにしている時に、夫婦で我を忘れてしまうのは、とりかえしのつかないような気持ちもあるにはあった。仮に冷静さを装っていたなどと気取った言葉で装飾してみても、あの場面での自分の気持ちというものは、未だ綴る言葉を私は持たない。ただ、結婚して一家を構えて、さて妻子を両手に抱えて見ると、自分の命はいつの間にか人の支柱に変わっている。愛する妻と一歳半の童子と生まれくる赤子のものである。ここで新しい生命の光の在処をしっかりと見つめていたのは、自分の心の平衡なのだろうか。
「ヒ、ヒ、フウー。ヒ、ヒ、フウー。」
 握りの強さが増してきた妻の手を握り返し、額に掛かる髪を後ろに撫でつけながら、一緒に呼吸を合わせる。
「はい!生まれましたよ!」
 医者の声と同時に、赤子の泣き声。
「ひとみ、声、聞こえる?」
 うんうんとうなづく妻。
 医者が生まれた赤子を抱き上げ、私と妻に見せてくれた。
「もったいなくて、もったいなくて、しっかり見ることができなかったの。」
 と大誠が産まれた時に、妻が言った言葉を思い出した。
 直視できなかった。いっぱいの光に包まれた遼士の姿に、ただただ、生命の輝きと、その強さを感じた。喜びというよりは驚嘆と、瞬時にめまぐるしい感動が、音のように素早く重なり合い、打ち合い、鳴り合って、自分ながら虚脱したようだった。
 大誠が看護婦に抱かれ、部屋に入ってきた。遼士も妻の枕元に来て、四人で記念撮影をする。遼士が助産婦に抱かれて部屋を出た後、妻もようやく安堵したようだった。美しい、無心の顔だった。心地よい労働をした後のように、額にポッと血の気がさしている。半開きの薄目のあたり、まつ毛が淡い光に濡れて、こまやかに輝いていた。大誠を抱きながら、しみじみと妻の寝姿をうかがって見る。言葉や行動というものは、何か甘い情緒の前では、片時も始まらないもののようだった。
 
 次の日、病院に行った時は、妻の病室に遼士も来て、抱くことができた。小さくて小さくて抱き方も忘れてしまっている私の側にいる大誠が、ずいぶん大きく見えた。みんなが遼士にかまっていると、一人でプイと廊下に出て行ってしまう大誠だが、側にいながら母親に寄り添えないもどかしさが、こんなふうに現れるのだろう。
「大ちゃん、遼ちゃんにメンコメンコしてあげて。」
 妻の言葉に、照れたような難しいような顔をした大誠が、一回り大きくなった大誠が遼士の頭に手を伸ばす。私と妻とは何故とはなしに顔を見合わせて、爽やかな微笑に移っていった。何か、心の中に満ちあふれてくるものがある。
 これが、生命だ。
 何という単純な充実だろう、と私はしばらく見覚えのない幸福を感じていって、静かにその喜悦を奥歯の中で噛みしめた。無垢の人体が描かせる、清らかな生活と理想。
 窓からの午後の日差しが四人を包み込む。
 ああ、この瞬間を忘れないぞと、ふいに私は今だけ手にとれるような思いがけない明確な力を感じとるのである。
 とりとめもなく新しい根源のような力を。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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