グラデーションヴェイル
藤崎 藍
 
 
 それはとある日曜日のことだった。
 マイコは恋人で婚約者でもあるイケルが迎えに来るまでの間、部屋で化粧をしながら待っていた。結婚式に必要な素材を買ったり、新居に必要な家具や電化製品などを近くの大型ショッピングセンターに一緒に見に行ったりすることを約束していたからだった。
 婚約してから以降というもの、準備とそれぞれの仕事であまりにも慌しく、またやはり結婚にまつわる費用で出費が嵩むのでデートらしいデートは時間的余裕からも金銭的余裕からもできない日々が続いていた。
 そういう余裕のないのも、なんといっても結婚する、という良い意味の余裕のなさではあるのだがそういう余裕のなさから恋人時代の甘い時間が二人の間に持てないことも、ストレスに若干拍車をかけ始めていた頃である。
「この間結婚したミカもそういえば大変そうだったもんな。あの時はミカのこと、労わってあげるなんてこと特になかったけど、実際自分が結婚するとなると、思った以上に大変なんだよね・・・。」
 心の中でそう呟きながら鏡の中の自分の顔を見た。
「ああ、やっぱり寝不足続きで疲れてる・・・、できることなら会社をしばらく休みたいくらいだわ・・・。こんな感じで結婚式当日に自分のベストな状態で臨めるのかしら?その日が一番大切な日だっていうのにこんな突かれきった顔では嫌だわ。」
 そう思った。
 前にもこんな会話をイケルとしたことがあった。イケルは一緒に頑張ろうな、楽しもうぜ、と彼特有のおおらかで前向きな、もし他人に彼はどんな人? と訊かれて一番最初にそう説明するであろう彼の代名詞のような、いつものその調子で明るくその時は答えてくれた。マイコも十分におおらかで前向きな考え方ではあるが、マイコの代名詞として一番に説明される、というとまた違う。
 疲れがピークに来ているといっても会社の人や家族など周りの人々の中でも好意な人からは幸せそうだね、一段と綺麗になったね、とそう言われることが多い近頃だった。
「人から見たらそう見えるのかな。ミカの時も、私からみればただただ幸せそうで楽しそうで、大変だなんて口では言っているけど幸せのための苦労だからいいじゃないって軽く流していたもの。こういう苦労って、実際自分がそうなってみないと解らないものなのね。もう少しミカの愚痴をまじめに聞いてあげれば良かったなあ。」
 鏡の中の疲れた自分の顔を見ながら、その時ふとネガティブな気持ちが込み上げてきた。人間というものは余裕がなく疲れているとポジティブばかりではいられないものなのかも知れない。
 そのときマイコは、この間イケルのすぐ上の兄と交わした会話を思い出したのだった。思い出した瞬間に、グレイな感情がマイコを襲う。
 そのグレイな感情がマイコ全体を覆い尽くして真っ黒になりきってしまう前に、窓の外で車の停車する音がした。
「イケルかな。」
窓を開けて下を覗き込むとやっぱり彼の車だった。
 マイコの姿に気がつくとイケルはすぐに車を降りて窓を見上げて言う。
「おはよう! もう用意は出来たかい?」
「イケルオハヨウ。うん。すぐ降りるから待って。」
 マイコは笑って言った。いつも彼と過ごす時間がマイコに自然とそうさせた。
 
 
 「お待たせ。今日もお買い物がデート代わりね。」
 その言葉にイケルが少し笑う。
 デートらしいデートをしていないといってもいつもイケルと会う時にはメイクや服装などにはそれなりに気を使っていた。化粧したばかりの自分の恋人の美しい顔と姿を見て、また恋人に会えたことに対しての満足感のようにイケルの照れたような笑い方を見るのがマイコは好きだった。時にはわざとイケルに悪戯っぽく冗談を言ってイケルをそういう表情にさせて自分も幸せな満足感を味わうようなこともある。
 車に乗り込んで早速、マイコは今日の予定の確認をするためにリストのメモを読み上げた。結婚のための特別な買い物以外にも、日用品などの買い物も数点ある。運転をしながら聞く彼の横顔を見て
「ああ、自分が結婚するなんてウソみたい。私ほんとに結婚するんだわ。イケルの私と一緒にいるときに見せる幸せそうな顔が好き。イケルの横顔も好き。」
 急にそう言ってみた。イケルはシャイなタイプの性格だったので、それを聞くと少し拗ねた子供のように顔を赤らめて微笑みマイコの乗っている方とは逆の右側の窓の方に顔を背けてしまった。その表情の中にマイコに対する愛情が伺えるのがまた嬉しかった。
 オートマティック車ゆえに自由が利くイケルの左手は、無言のまま膝の上からいつのまにかマイコの手を優しく握っていた。
「私、シアワセ。」
 マイコが決していやらしくなくそう優しく言ってまた右側のイケルの横顔に自分の顔の向きを変えると、車内二人の間にはさわやかな、結婚直前の恋人らしい空気が流れ始めてゆく。
「やっぱりイケルの横顔スキだ!」
 マイコは無邪気に明るく笑う。
 
 
 ショッピングセンターの中の幾つかの店で仲良く腕を組んで歩き回って買い物をし、このときはワインやお菓子など部屋でくつろぐときのために食品売り場で買い終えた時だった。
 次はJの店でコーヒー豆を買えば終わりだよ、そう言ってレジに並んでいた。日曜だけあってレジも混雑していたので順番を取るようにしてマイコだけ先に並んでいた。イケルは自分の食べたそうなスナック菓子をあとひとつふたつカゴに放り込むとそのお菓子売り場のすぐ横にあるレジにショッピングカートを押してマイコのところに来た。
 食材はそれほど買うものはなかったのにショッピングカートを利用したのは、その前にホームセンターで買った品数が多かったからだ。買い物中持って歩くのには不便な量と重さだった。カートの下段や、すでに前の店で袋詰めしてくれてある商品を上段のカゴの中にいれて食品売り場を散策していたのだ。急ぎ気味にこちらにカートを押してくるイケルの姿を見てマイコは何か違和感を覚えた。すぐには気が付かなかった。一瞬考えた。まるで二枚の絵の間違い探しをしているような感覚になってじっとその姿を見つめたまま考えた。はっと気がついた。下段に乗せてあったはずのトイレットペーパーが無いのだ。
「イケル、トイレッタは?」
 トイレットペーパーやお手洗いのことを、イタリア風だねとわざと「トイレッタ」と言うのが二人の間で恒例だった。こんな時にいつものようにそう呼べるそんな余裕が何故自分にあるのかと思うがマイコにとってはたかだか数百円のトイレットペーパーが無くなっていることが小事ではなかった。
 イケルも同じ様子だった。
「あれっ!? やばい。落としたのかな。俺ちょっと店ん中探してくるよ!」
 カートをマイコに託し慌てて駆け戻るイケル。顔色が少し青ざめている。結婚資金用に分かり易いように使おうと作ったクレジットカードをサッとマイコに渡して店に戻って行った。
 非常事態発生である。たかだか数百円のトイレットペーパー十二ロール分が無くなったくらいのことである。誰が聞いてもそう思うであろう。それがわかっていても不穏な空気はトイレットペーパーを見つけて、「あったよ、あった、ワイン売り場に落ちていたよ」とでもイケルが言って戻ってくれない限り払拭されそうにはない。またその半面で、大した金額でも大した品物でもない、無かったなら無かったでまた買えばいいし、とも思い、また、多分店内のどこかに落ちているのだろうという楽観的な思いもあった。
 レジ係の店員は事務的に商品の計算をしていく。事情を知りえないのだからあたりまえなのだが、事務的にしかし感じの良い態度で会計をする。マイコも、
「一括でお願いします。」
 とカードを差し出しレシートを受け取って少し会釈し事務的に支払う動作をするのだが、頭の中は例の「トイレッタの一件」でいっぱいだった。
「お願い有ってお願い有って」
 頭の中で呪文のようにぐるぐるしている。自分がちゃんとカードを渡したり受け取ったりしているか、店員が間違えてカウントしていないかなど普段できることが出来ているのかさえも分からないまま自分でありながら自分でないような上の空だった。
 会計を終えると間もなくイケルが帰ってきた。その顔色を見ただけでは結果が判らなかった。
「どうだったの?」
「なかったよ・・・。」
「お店の人に聞いてみたの?」
「うん。でもそういうのはまだ届いてないって。」
 カートを押しながら店の出口の方に行くと、さっきイケルが確認したらしい社員らしい男性がいた。イケルが一言二言その男性と言葉を交わすと向こう側から別の男性が寄ってきた。こちらも上部の社員らしい。
「やっぱりまだ届いていませんもので・・・。」
「すいませんでした。」
「お役に立てずに申し訳ないです・・・。」
 イケルはそういうとすぐに店を出ようとする。店員のうちの一人は何事も無かったように店内の雑用に戻っている。もう一人の方はは何かまだ御用がお有りなら、という表情をして来店のお礼を述べて頭を下げる。マイコのしようとしていることとその店員の様子は一致していた。
「ねえ、名前を言っておいてもし後で見つかったら連絡して貰うようにしましょうよ?」
 小声で言ってみる。
「もういいって。面倒くさいじゃないか。」
「え・・・、でも見つかるかもしれないじゃない。今頃届けてくれた人がいてたりして、ねえ?」
 二回マイコの意見を言っても聞き入れてくれそうな様子は一向になく、彼がそういう考えならば、と無理に反発するのも嫌だったのでマイコは黙ったまま一緒に食材売り場を出た。
 
 
 いつもは色とりどりの珍しい輸入の品物で何も買わなくても楽しませてくれるJの店でコーヒー豆を買っても、その後ショッピングセンターを出て車に乗り込んでも、二人の間にはモヤモヤとしたものが覆い被さってしまって気持ちのいい空気はなかった。
「せっかく最近派手なデートも我慢してお食事だってお話だってどちらかのお部屋でって我慢してたのに。お部屋で飲むワイン一本だって少しでも安いものを、って気を使っていたのよ?お仕事だってすごく忙しくって、お休みの日もお仕事終わった後とかも式場の人との打ち合わせとか新居探すのとか招待状作ったりウェルカムベア作ったり忙しくって、私も疲れ果てているの。ほんとはそういうときにイケルと一緒に外でデートできたら少しは気も紛れるのに、そういうのも我慢して我慢して。それなのにトイレッタ失くすなんて。」
「いいじゃないか。高価なものやあまり売っていない貴重なものを失くすより。またすぐ買えばいいじゃないか。何で今日すぐに買わなかったんだよ? もうすぐ俺の部屋でトイレできなくなるよ?」
「もう今日はトイレッタのことは考えたくなかったからよ。またすぐ別の機会に買えばいいわ。」
「とにかくもうこのことは忘れよう。考えたって仕方がない。考えてもどうにもならない。」
 その言葉を聞くと今朝のグレイヴェールがダークに変わりながら再度マイコを覆い尽くそうとした。
 それと同時に信号待ちしている二人の車の左側を、外国人の三人連れが自転車で横切った。
「あ、さっきレジのところにいた人たちだわ。お買い物中もあの人たちと同じ時間だったわ。」
「そういえばいたね。」
「女の人のおでこに赤いしるしがついていたの。だからインド辺りの人じゃないかしら?」
 彼らは自転車なので渋滞している車の列の横をすいすいと三人縦に並んで漕いで行く。三人のうち二人は男性、一人は女性だった。自転車の前カゴとハンドルに買い物袋を提げ、その中の一人はさらに後部にダンボール箱を括り付けていた。先頭にいる男性の自転車のハンドルにかけてある荷物が四角い薄い緑色の品物だった。
「あ!あれ私達のトイレッタじゃない?なんだか怪しかったもの、あの人たち。イケルが探しに行ってる間にね、横の列に並んでいたあの人、デジカメでこっちの方を撮っていたの。だって何にも写真に撮るような珍しい物なんてないじゃない? 入り口の方を撮るような振りをしていたけれど、何気にあれは私のことを撮っていたんだって判ったもの。変なのって思ったけどあの時はトイレッタを失くしたことで頭がいっぱいでそんなに気にしてなかったんだけど。そうよ、きっとあの人たちが拾ってそのまま届けず持って行ってしまったんだわ! そうか買い物中にちょっとカートから目を離した隙に盗んだのかもしれないわ!」
「確かに形と色はトイレッタと似てるけど、それにしてはちょっと四角すぎないか?」
 そう言っている間にも彼らはどんどん先へ進んで行く。
「なんとなく追いかけましょうよ。」
「追いかけてどうするんだよ?」
「あれがトイレッタだと確認するだけよ。何にもしないわ。別に返せなんて言わないわ。証拠もないもの。あれがトイレッタと同じトイレットペーパーだということが判っただけでも少し気が晴れるもの。落としたのじゃなくって盗まれたのかもって思っていたし、外国の人は文化が違うから落し物を届けるという習慣がないかも知れないからそのまま・・・ってこともあるかも知れないじゃない。とにかく早く追いついて。」
「そう言われても信号が赤だよ。その先もまだ車が続いている。」
 やっと信号が青になり右折した。彼らは先の方にまだ見えている。
「ほらまだいるわ、早く早く!」
 また次の信号に引っ掛かる。自転車軍団はどんどん小さくなっていく。マイコは薄緑色の箱型の「何か」を「何」であるか必死で見分けようと目を凝らしていたが、どうしてもそれがトイレットペーパーなのかそうでないのかまでは判らなかった。トイレットペーパーでないことを願いながら凝視したがとうとうわからないまま彼らを見失った。同じ瞬間で信号は青になりイケルは左折した。直進するだろうと思っていたマイコはちょっとイライラした。
「どうして曲がるの? もう少しすれば追いついたのに。」
「無理だよ。どうせこの渋滞だ。それにあっちを通れば遠回りだろ? もう本当にやめようぜこの話は。」
 マイコを覆っていたヴェールがダークにさあっと変色した。
 イケルはチっというような声を出して笑う。
「どうして笑うの?」
「いやさ、俺ら完全にあの外国人を犯人扱いだなあと思って。気の毒にさあ。」
「そうね。でも別に差別でそう思ったんじゃないの。ただ、あんな関係のないところで写真を撮っていたし、私たちのことジロジロお買い物中も見ていたんだもの。日本人と違ってそういうことはよくあることなんだけどあんなに見られると不審に感じるわ。それにこのタイミングで同じような色形の何かを持っているんだもの、怪しんだって不思議じゃないでしょう?」
「もし彼らが持って行ったのなら、あげたと思えばいいじゃないか。俺らはまた買えばいいだろう? 俺が悪かったよ、買い物中カートを押していたのは俺だったし。カゴに入れてから下の段に積めば落ちなかったかも知れないし不注意だったんだよ。もう言わないでくれ。」
「不注意だったのは私かも知れないわ。私がカートを押していたときもあったもの。それに別にイケルを責めてる訳じゃないの。」
「いや、俺がほとんど押していたから俺の責任だよ。」
 ダークに変化しようとする感情の原因となっているマイコの中の何かがちくりちくりと痛み始める。イケルが「もう忘れよう」と言っているのに反発するのは嫌だったが、かと言っていつもの気分にすぐに戻せるものでもなかった。彼の言うことに従いたい。でもすぐに前向きになれと忘れろと言われれば言われるほど、マイコの不穏な気分は浮き彫りにされるようだった。それではまるで自分がいつまでも細かい事に執着している小人のように思われているのも嫌だった。執着している訳ではなかったが、そのことをうまく言葉にできなかった。言葉にできないことが余計に気分を害していく。ついには心臓をもそのダークな何かによって嫌な脈を打ち始める。
「違うの。イケルのせいだって怒っているんじゃないの本当に。日ごろから節約のためにいろいろ気を配っているのに無くしたことが悔しいの、値段が安いからってそういう問題じゃないの。トイレッタ一つ買いに行く手間だって今は大変でしょう? 今日だって貴重な時間で買い忘れがないようにって、どこの店で何を買うか予算はいくらくらいかって前もってメモしてきたじゃない。少しの気の緩みで無くしてしまうそういうドジな自分に腹が立つの。」
「俺だって一緒だよ。事故だよ事故。そう思おう? 俺だって自分に対して悔しいんだ。とにかくもうやめよう!」
 少し突き放したようにイケルが言ったので思わずマイコは涙ぐんでしまった。そして押し黙ってしまった。
 何がこんなに苦しいんだろう? たかがトイレットペーパーひとつのことで。マイコは黙っている間自分に聞いてみた。それにこれ以上口を開いたら感情的なケンカになりそうで嫌だった。お互いがそういう感情をセーブすることのできる性格――ネガティブな感情を表面に表さないということのできる性格だったので、男女の間によく見られるような痴話ゲンカはこれまでほとんど二人の間にはなかった。
 イケルもなんともいいようのない変な顔をして黙々と運転をして帰路に向かっている。左手はハンドルを握ったままだった。
 このまま自分の気分が治らなかったらどうしよう。イケルと結婚して本当にいいの? 幸せになれるの?
 
 
 マイコはイケルのすぐ上の兄の言った言葉を思い出していた。それを思い出すと何故自分の気分がトイレットペーパー如きでここまで落ち込んでしまったのか分かってきた。そしてその理由はイケルとの結婚をときどき不安にさせる要素の一つでもあった。気付いて見るとそれはトイレットペーパー如きでそうなったのではなく、トイレットペーパーの一件はきっかけに過ぎなかったと気付かせることでもあった。自分がそんな小さなことで気分を害する人間でなかったことだけには少しホッとするマイコ。
 以前、彼の実家で夕食をご馳走になったことがあった。イケルのすぐ上の兄はまだ独身で実家に住んでいた。なんとなくマイコはこのイケルの兄が苦手だった。マイコにとってはなんというか威圧感のある息苦しい人だった。ビールを飲みながらの食事でその場にいたイケルも兄も両親もほろ酔いながらの会話になっていった。甥に当たる一番上の姉の子供の話になった。そのとき義兄が言った。
「あの子が絨毯の上にジュースをこぼしたことがあったんだよ、でもいつまでも叱ってもしょうがないって思ったんだ。起こった事は仕方のないこと。その事をいつまでも考えていたって仕方がない。起こった過去は戻せない。次に同じことにならないように気を付ければいいだけなんだって思う。何だってそうなんだよ。だから俺はズルズルと引きずらないよ。俺はねえ、マイコちゃん、そういう考え方。」
 はっきりとした口調で義理の兄が言う。あまりにも自信満々ときっぱり言い放つので、まるでマイコや自分以外の世間の人間がつまらないことにいつまでもこだわっていることを馬鹿馬鹿しいという風に否定しているように感じ取れてしまった。義兄が苦手だからと言って、何でも悪いほうにばっかり取ってはいけないと思いながらもその意見と義兄に対して批判的な意見がマイコに見出された。
「マイコやマイコの家族はじっくり考えて気持ちを大切にするタイプなんだよ、兄貴。」
 イケルのその言い方が兄と俺は同意見であると調子付いた風に聞こえた。イケルの家族に囲まれた中でマイコに対してイケルがそういう風に言うとマイコの立場が無くなる。けれどもイケルにしてみれば何の意図もない無邪気な発言だった。それは分かった。イケルの家族にとってはマイコやマイコの家族が異質であるかのように扱われ、マイコの家族にとってはイケルやイケルの考え方が異質であるかのように扱われている。それをあからさまに表現するのがこの義兄だった。そもそも言い方自体が優しくないのだ。それがマイコにとっては自分を否定されているかのように捉えざるを得ないことがしばしばなのだ。初めから両家とも全員この結婚には賛成していたが、やはり心の奥底では歓迎されていないのだろうか、とマイコを悩ませていた。けど口では気に入らないという言葉を一つも聞いたことはないし、マイコちゃん、マイコちゃんと言っておせっかいなほど気にかけてくれる。しかしそういうのも世間体に合わせて形だけ一応賛同した風を装い、腹の底では何か否定的な感情を持っているのかとマイコは感じていた。そうであるならなんて陰険でズルイやり方なんだろうと思っていた。嫌なら嫌と、マイコやマイコの家族のどこそこが気に入らないとはっきり言って貰えるほうがそれもそれでショックではあろうがうんとマシだった。はっきりしているのは口調だけだった。
 はっきりしている、という良い意味の言葉だけで表現できるものではなかった。普通の何気ない世間話でさえもキツイ言い方だった。言い方だけの問題であったとしてもそんな言い方ではどんな言葉も嫌味にしか受け取ることができないでいた。ましてや言葉そのものもキツイ類のものをたいてい使うのだ。マイコはイケルの家族を紹介してもらってからずっと、イケルの家族の前で息苦しさから開放されたことはなかった。特にこの義兄に対しては。
「育ちも家庭環境も違う他人同士が一緒になるんだもの。違って当たり前よね。」
 以前それについて議論したときもイケルにさっぱりとマイコはそう言ったことがあったものの、
「みんなそうじゃないですか? 次に同じような失敗を繰り返さないようにと反省するものだと思います。」
 反論しているように聞こえるのも失礼だと思ったので、
「その反省する時間がきっと他の人よりも短いのだと思いますわ。イケルさんもそうですけど、やっぱりお兄様もいつも前向きな性格なんですね。」
 にっこり笑って、褒めているんだよ、という様子でそれでも嫌味にならないようにマイコは言った。
 
 
 イケルの家に着いた。押し黙ったまま二人とも妙な顔をして荷物を降ろした。マイコが黙ってしまうとイケルはもっと黙る傾向にある。決して無口なイケルではないのだが、だいたいいつもどんな小さな話題でも会話を切り出すのはマイコの方からである。もしマイコが無口なタイプなら二人は寡黙な恋人同士であっただろう。この沈黙がより一層マイコを沈めていく。いつまでも機嫌の悪い自分を見せるのも嫌だったのでマイコの方から口を切り出した。
「ごめんなさい。でも私、すぐには気分が治らないわ。これからどうするの? 私たち。」
「トイレッタくらいでこれからどうするも何もないだろう? 俺だって無くしたことは気分が悪いんだ。だからこそ意図的に早く忘れるように努力しているんだ。なのにいつまでもマイコが引きずるから。」
 よくお話しましょう、と言ってもう一度ゆっくり整理して話すことをイケルにお願いした。
「あのね、どうして店を出るときあの店員さんに名乗って電話番号教えておくなりして探しておいて貰おうとしてくれなかったの?」
「かっこ悪いと思ったからだよ。たかだかトイレットペーパーくらいでさ。それに自分の過失だから。」
「だけどもし後から見つかったって連絡があればそのことで気持ちが少しは楽になる気がしたから私は言いたかったわ。見つからなかったとしたらそのときは仕方ないって思えるもの。やれるだけのことはやってそれでもだめならって。トイレッタが問題じゃないの。値段でも品物でもないの。」
「そう言われればそうだったね。すまない。」
「イケルは男性だから、かっこ悪いと思う気持ちわかるわ。それにそういう性格でもないもの。それもわかる。でもどうしてなの? いつも大切なことを簡単に無視しようとするというか・・・。イケルはいつも何だってそうなの。マイナスの出来事があったらそれを考えないようにすることで嫌な気分から逃れようとするんだもの。」
「だって考えたって仕方ないじゃないか。現実が変わるわけじゃない。それなら次に生かすべきだろう? なるべく常に良い気分でいたい。」
 マイコはつい感情的に言葉を発しようとしてしまうのを抑えながらなるべく静かに言う。
「それは私だって同じよ。私も他の大人もガキでもないしバカでもないわ。そんな道理くらい解っているわ。ショックな出来事があってそれはもうどうしようもない、起こってしまったことは仕方ない、なるべく早く立ち直って次に生かそう、そんなことくらいわかっているわ。私が言いたいのはそうじゃなくって・・・、何て言ったらいいかわからないよ・・・。」
 感情をこらえた分涙が滲んでくる。
「・・・そういうところが、あまりにも自分と違い過ぎて、イケルもイケルの家族も。でもイケルのことは好きなの。一緒にいて本当に安心するのホッとするの。でもこんなに違うのならこの先一緒にいて大丈夫なのかなってときどき不安になるの。こんなに幸せなのにイケルと一緒にずっと居たいって心から思っているのに、どうしてこんな不安を感じるか自分でもわからなくなるときがあるの。これからどうするのって聞くのだって別に結婚を辞めたいとか別れたいとか思ってるわけじゃなくって・・・。」
 ポロポロと左目からこぼれ震える声でマイコは言った。そういうことを言うとイケルを悲しませることとわかってはいても言わないわけにはいかなかった。イケルはそういうことで切れてしまうような性格でもなく、俺がいつもしっかりしていれば俺が守り切れてやれてないからマイコを不安にさせるんだという男らしい性格だったので、マイコもそういう点では安心して話せることは全部話すのだった。
「全部吐き出してしまえよ。」
「お兄様のことだわ。お兄様がもし私を歓迎してくださっていないのなら、私イケルとの結婚はあきらめても仕方がないって思っているの。」
「兄貴は何にも言ってないよ。それにもし反対していたって、俺の人生だ。俺が決める事だろ。」
「歓迎されてないように感じるの。私はイケルの家族とかお友達とか大切な人みんなに歓迎されたいわ。そんな大切な人の中で一人でも歓迎されてないのならとても辛いもの。それならばその人たちがみんな好んで歓迎して仲良くやれる相手と結婚したほうがイケルの幸せなんじゃないかって思うの。」
「周りは関係ないだろ? 何度も言うが俺が好きでマイコが俺を好きならそれ以外に何が必要なんだ?」
「関係なくは無いんだもの。イケルにとって大切な人は私にとってもみんな大切なんだもの。好かれたいわ。仲良くしたいわ。」
「他人同士なんだからみんながみんな調子が合うとも限らないでしょう?」
「こんなお話、前から何回もしているよね。いつも堂堂巡り。」
「ともかく早く気分を回復させてくれ。」
「わかってるけど、自分じゃコントロールできないの。」
 困ったなというようにふうとため息をついてマイコを見たままイケルは何も答えなかった。怒っているような様子はなかった。
 しばらく沈黙が流れた後、マイコが言った。
「ねえ、たとえば何かショックな出来事があるとするでしょう? 考えても仕方のないことだって、次にその失敗を生かせばいいんだって、それは解るわ。そんなことくらい誰だって解る。けど私はその頭で考えた理屈通りに心が従わないのが人間なんだと思うの。理屈はわかっていたって早く立ち直らなきゃってわかっていたって、そういう気持ちにはなれないときだってあるものよね・・・。ショックなことがあってしばらくはショックなブルーなままの感覚が続いたってそれって自然なことなんだと思うの。じゃあね、もし自分にとって大切な人が死んでもそうできる? イケル。死んだものはしょうがない、考えたって泣いたって生き返らない。じゃあハイ次!って前向きになれる? やっぱりしばらくは沈んだ気分になるでしょう? もし頭で考えた理屈どおりに心が従うのならそんなの非情だと思うよ。ロボットみたいじゃないそんなのって・・・。何でも程度問題で、あまりにもショックを引きずりすぎて精神病みたいになっちゃったり、長い間普段の生活に支障をきたすようだったりしたらそれはそれでおかしいとは思うんだけど。そこまで私ネガティブではないはずよ。ねえ、極端な例えかも知れないけれど、もし私が殺されてもそんな風にすぐに気分を治せるの? イケルは。」
 イケルは黙って聞いていた。特に返事はしなかったがその表情が答えのすべてを物語っていた。マイコの心からスルスルと糸が解けるように「何か」が解けていった。マイコ自身もこんなに上手に自分の漠然とした不安を説明できるなんて思ってもいなかった。日ごろ考えていたことを言葉にしたのではなく口にするのと同時に自分の気持ちを吐き出していたという感じだった。もう一粒こぼしながらマイコは続けた。
「私を考えすぎだとか引きずりすぎだとか思わずに、もう少し感じることを大切にして、お願い。」
 そうじゃなきゃこの先一緒にいたって不安ばかりが大きくなっていくから・・・、そう続けようとしたマイコの気持ちを汲み取ってなのか、今肯定しておかないとマイコに離れられるのが心配だったのかマイコにはすぐに判別できなかったがイケルは優しく頷いた。そしてそのままマイコの手を握った。
 涙が流れた後がついているままの頬でマイコは
「ワインでも飲む?」
 そう言って笑って買い物袋から瓶を取り出した。その瓶をイケルの膝の上に乗せた。当然不安定で膝から落ちそうな瓶を取ってイケルは
「そうだな。今日はゆっくりしていくか? 今日見た家具の寸法測って来たから新居に合うか図面見てみようぜ。」
 そのときのイケルのその少年のような目が、マイコに離れられるのが嫌で自分を曲げて同調したのではないということがマイコには判った。
「うふふ。今日トイレッタ無くして良かったね。」
「それは違うんじゃないのか?」
 イケルも元の機嫌に戻っている。
 その後は楽しく話をしながらワインを飲んで夜遅くなってからイケルはマイコの自宅まで送り届けてくれた。次の日もお互いまた朝早くから仕事だった。
 
 
 それから二週間ほどが経ったある日、自分の方が早く仕事が終わったときはいつもそうしてくれるようにマイコが会社から出て来るのを会社の前に車を付けてイケルは待ってくれていた。その車に乗り込みながらマイコは
「お疲れさまー。待たせちゃってごめんね。」
 そして今日自分が仕事で失敗をし上司に嫌味を言われてしまったことのショックな出来事を一番に切り出した。
「会ってすぐ悪いなとは思うんだけど聞いてくれる?」
 そう付け加えてから会社での失敗談と上司に怒られた悔しさ、自分に対する悔しさをわりと簡潔に吐露した。
 一連の話を聞き終わってイケルが放った言葉を聞いてマイコは苦笑いした。
 
 
 ―――頭で考えた理屈と心で感じる感情がいつも一致するとは限らない―――
 傍から見ればそんな簡単に思えるようなことが言葉にできずに、気持ちを整理できないまま婚約したマイコだったが、この結論にたどり着きその言葉を自分のものにしてからはダークヴェールに覆い尽くされきってしまうことはだんだんと減って行き、トイレッタの事件から二ヶ月後の、ある晴れた初夏の日和に、イケルと黄味がかった白いドレスに全身を包んだマイコは、生まれ故郷の海辺にある小さいけれども荘厳なカトリック教会で慎ましやかに結婚式を挙げた
 
 
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