息子が剣道をやりたいと言った
能瀬 明
 
 
 息子が剣道をやりたいと言った。
 待ちに待った一言だった。九年間待ち続けた。
 剣道は過酷な競技だ。無理強いはできない。しても続かないと考えた。「剣道をさせたい」という熱い思いを胸の奥にしまい、ひたすら待ち続けた。
 私は剣道五段。苦しみながら昇段した。剣道の厳しさと苦しさを少しだけ知っている。
 楽しいスポーツは世の中にいくらでもある。心を解き放って、体を動かすことの喜びに身をゆだね、健康な体と心を育てられるのがスポーツのすばらしさではないか。強いて剣道を選ぶ必要はないのだ。欧米から輸入された競技はゲーム性が高く、楽しみながら競い合えるように工夫されている。心地よい汗を流しながら、楽しい時間を過ごすことが大切なのだ。
 剣道は違う。スポーツではない。日本に古来から伝わる文化だ。
「打って反省・打たれて感謝」対戦相手を「お相手をしていただく方」と呼んで敬い、対戦後には結果の如何に関わらず、心を込めて礼をする。勝っておごらず、負けることで「学ぶ機会を頂きました」と、相手に感謝する。
 勝つことが最終目標ではない。勝敗で一喜一憂しない。勝つために努力する過程で、よりよい人格を形成することを目標とする。だから試合中のガッツポーズは御法度なのだ(『礼を失する』という理由で、反則負けになる)。ゲーム性は皆無。審判に見えない角度で反則をすることを「あたり前」とする競技とは、根本的に成り立ちが違う。競技の根底に流れるのは、圧倒的な他者意識と克己心(自制心)、そして忍耐の心だ。快楽主義的な現代の世相とはあわない。というか真逆の性質をもつ。
 息子はゲームが大好き。カードゲームやバーチャルゲームに夢中。ゲームの世界に入り込むと、名前を呼ばれても返事もしない。この競技をいつまで続けられるだろうか。不安は尽きない。
 
 息子は、体の強い子ではなかった。二歳の頃に喘息を患った。真夜中、発作に襲われて何度も病院に担ぎ込んだ。喘息の大発作は凄まじい。息を吐くごと、吸うごとに激しく咳込む。喉が切れんばかりの激しい咳だ。喉の内側が炎症を起こして腫れ上がり、気道をふさぐ。呼吸ができない。命の危険を感じてパニック状態に陥る。狂ったように泣き叫び、泣き叫ぶことでまた咳を繰り返す。そんな状態が一晩中続くのだ。一年の間に四度、入退院を繰り返した。
 四度目に退院した後、保育参観で息子の姿を見た。保育園に出かけて、「お遊戯」と呼ばれる集団遊びの時間を参観したのだ。先生が奏でるピアノの音色に合わせて、歌ったり踊ったりする楽しい時間。しかし、約半年の間保育園の生活から遠ざかっていた息子は、周囲の子ども達に合わせて動くことができない。どう動いて良いのか分からないのだ。加えて、治療薬の副作用で体重が増えてしまったせいで、動きが悲しくなるくらい遅い。周囲の子ども達が歌い、踊る動きから全くかけ離れてしまう。それでも周囲に合わせなければならないと思うのだろう。周りの動きを上目遣いでおどおどと眺め、必死に合わせようとする。周りの子ども達が朗らかに笑っているのとは対照的な表情。不安と緊張。今にも泣き出しそうなこわばった表情で懸命に周囲についていこうとする息子の姿に、心が締め付けられた。
 
 私は熱心な家庭人ではない。顧問をしている剣道部(中学校)の指導に明け暮れている。休日は基本的に家にはいない。生徒と共に一日中剣道をしているのだ。
 五月の連休、夏休み、冬休み、家族を連れて行楽に行くことはまれだ。家族が起き出す前に道場に出かけ、夕食時までかえることがない。
 「お父さん明日も剣道?」と聞く息子の目が寂しげに潤んでいる。「決まってるでしょ」と息子を諭す妻は、怒りを通り越してあきれてしまっている。
 
 卒園式の日、将来の夢と題された絵を渡された。息子が保育所で描いた物だった。
 「けんどうせんしゅになる」と大きな字で書かれた下に、竹刀を構える剣道選手が描かれていた。
 細部まで緻密に描かれた剣道着、袴、防具。
「こんなこと考えていたのか。全然気付かなかった」と私。
妻は不服そうな顔でため息混じりに言う。
「あなた、気付いてる?」
「何?」
「この子が好きなのは、剣道じゃないの」
「え?」
「剣道を始めれば、あなたと一緒にいられると思っているのよ」
 
 土曜日、剣道教室が終わった夜、二人で銭湯に行く。壁に埋め込まれた水槽の中で、熱帯魚が泳ぐ、ちょっとしゃれた銭湯。湯は熱め。息子は歯を食いしばって耐えている。
 入浴の後、脱衣場に置かれた大型テレビで、洋画劇場を見ながらサイダーを飲む。自然と話題は、剣道の基本動作の内容に傾く。
「左右面までは何とかやれるんだ」
「うん。わかる。」
「でも、どこがダメだかお父さんなら分かるでしょ」
「もちろん」
「一挙動素振りが難しいんだよね」
「うん、難しいよ。気長にやろう。きっとできるようになる」
「うん、わかった」
 笑顔。 
 
 夜、二人で布団に入って眠る。手を握ると無心に握り返してくる。
 手を握り合ったまま、息子は眠りに落ちる。私はそっと目を開け、寝顔を見つめる。暗い寝室で、私と息子は明るくて温かい力に包まれている。
 
 
inserted by FC2 system