HAKODATEと私
黒丸健吾
 
 
 青森市の西側の地域に住んでいた私は、青森駅を利用するときは、正面の東口ではなく、あたかも無人駅であるかのような、少し裏寂れた小さな入り口の西口を利用することが多かった。その小さな西口の改札を通り、急な階段を登り、連絡通路をしばらく歩く。入り口と同様に狭い連絡通路であったように思う。実際はそれほどでもなかったのかもしれないが、随分と長い距離を歩いたように思う。東口に通じる連絡通路と繋がった途端、幅が二倍ほどになり、その幅広の連絡通路を少し歩くと、左側に列車の発着する各ホームへと降りる階段が何本かある。西口と東口の連絡通路が繋がったあたりから、三本目ぐらいの階段を降りると、何番線かのホームになる。そこから真っ直ぐに駅のホームを歩いて行く。当時、日本で一番長いホームであったはずで、冬になると、屋根が付けられたホームであったが、そんなことにはおかまいなく横から降る雪をまともに受けながら、ただただ歩いて行く。そうすると、ホームへ降りてきた階段より少し幅の広い階段が正面にあり、それを登っていく。登り着いたところを右に曲がり、また、連絡通路を歩いて行く。そうすると、やっと青函連絡船の待合室がある。
 直角の背もたれで、座る部分が中のスプリングをそのまま尻に感じるような中央部分が盛り上がった薄緑色の合成皮の張られた長椅子が幾つも並べられており、そこに函館行の青函連絡船を待つ客達が座っていた。椅子が並べられた正面には、少し汚れが点在した「あったかヌードル」と書かれた看板がはめ込まれた、インスタント?を食べさせる軽食のコーナーがあった。小さい頃「ヌードル」は知らないが「ヌード」は知っていた私は、中に何があるのか気恥ずかしくも興味津々で、手にしていたカードやおもちゃを入れた小さな宝箱を開け閉めしながら、上目遣いに見ていた記憶がある。
 
 昭和六十年の四月から、昭和六十四年、もう平成元年になっていたその三月までの四年間、私は函館にある大学に在籍していた。青函連絡船は昭和六十三年の三月十三日、青函トンネル津軽海峡線の開通に伴い廃止されたので、私はおよそ三年間の間は、青函連絡船を使って函館と青森を行き来していた。
 函館までは連絡船で四時間半ほど時間がかかっていたので、乗船のときは椅子席ではなく、毛の短い絨毯の張ってあったマス席を利用していた。乗船時間のほとんどを、そこで寝転がって過ごしていた。受験や帰郷、訪函のため、三年間の間は何度も青函連絡船を使っていたはずだけれども、デッキに出て津軽海峡を眺めた記憶はない。その記憶は小学生のとき修学旅行で初めて青函連絡船に乗ったときに遡り、大学生だった自分が海を眺めていた記憶がない。それは実家に帰ることを望んではいなかったが、それでも帰らなければならない状況があり、せめてもの抵抗から、いつも遅い時間の利用だったからもしれない。
 最も記憶にあるのは低気圧とともに函館へ向かったときのことで、それは一度だけではなかったと思う。連絡船は左右へのローリングを続け、四時間半もの間、マス席に横たわっていた私は波の動きとともに、左右へ何度も何度も転がった。吐き気と頭痛とめまいが襲ってきて、眉間に皺を寄せたまま目をつぶり、とにかく呼吸を整えることだけを考えていた。苦痛で苦痛で仕方なかった。 函館は海を挟んで隣にあるが、現在新青森駅と東京駅が東北新幹線で三時間半ほどで着くことを思うと、四時間半の時間がかかった三十数年前までは、遠い遠いお隣さんであった。そんな苦痛も津軽海峡線が開通し本州と北海道が鉄路でつながり、列車での移動時間が二時間半ほどになり、座席に肩肘をつきながら座って移動できるようになったことですっかりなくなった。
 
 函館駅についてからの風景で覚えているのは、駅舎の横を通って駅の正面口に出る通路である。狭く、暗く、寒く、きっと夏場も多く通ったはずであるのに、なぜか雪曇りで吹雪いていたときの記憶ばかりである。通路の右手の窓からは今ほどきれいに観光化されていない朝市が、まるでバラックの闇市のように広がっていた。もちろん朝市の名誉のために言っておくが、その当時も決して闇市のようではなかったはずで、私の記憶の混乱なのだろう。その頃はまだ青森駅正面東口を右手に曲がって古川方面に続く道の片側には、屋台のようなリンゴ市場や、木造で色の黒い屋根が低く突き出たバラック小屋のような飲み屋が連なっていた。その風景を奥羽本線の古川跨線橋から繰り返し見ていたため混同しているのだろう。
 函館駅からは路面電車に乗り、五稜郭まで移動した。どこまで行っても百七十円だったと思う。五稜郭電停は「丸井今井」と「ホリタ」に挟まれていた。「丸井今井」にはほとんど用事がなかったが、「ホリタ」には一人暮らしのための生活雑貨を買うため随分と世話になったが、それも大学を卒業してからいつの頃か建物がなくなった。ホリタの脇を通り、下りながら五稜郭方面へ歩いて行く。当時も今も五稜郭に向かう道路の両側は飲食店が溢れ、歓楽街の一つとなっている。そして、北海道新聞社手前の三叉路の、真ん中の道を歩いて行くと向こうに五稜郭タワーが見え、左手にボーリング場が併設された生協があった。道立美術館はまだなく、今ほど整備されてはいなかったはずである。
 私は大学の一年生の頃は中道に住んでおり、五稜郭の中を通って、住んでいた下宿に帰った。そして、大学に通学するときも五稜郭の中を通った。現在は箱館奉行所が復元されているが、当時の五稜郭の中心は何もない広場で、石垣がそこを囲むように積み上げられていた。通学に使ったり、散歩に使ったり、毎日のように五稜郭の周辺を通った。大学の二年生になって五稜郭町に引っ越し、通学では使わなくなったが、それでも三日にいっぺんは散歩をしていたように思う。いつも一人で歩いていた。春の桜の季節や広い堀、藤棚、石垣、凍った水面に雪が積もり真っ白な道のようになった堀など、しみじみとした感情とともにその景色が思い出される。
 
 さて、もう十年ほど前だろうか。当時、私は東津軽郡の中学校に勤めていたのだが、その地域での先生方で組織していた国語の研究会で文学散歩をする機会があった。東津軽郡とは青森市を挟んだ陸奥湾に面した小湊町、蓬田村、蟹田町、平舘村、今別町、三厩村の三町三村を指す(現在は町村合併により三町一村となっている)。太宰治の作品「津軽」に登場し「蟹田ってのは、風の町だね」と紹介されている蟹田町(現外ヶ浜町)に「観瀾山」という標高にして四十メートルほどの小さな山がある。やはり「津軽」で「友人のN君らと登った」と紹介されている場所である。そこに太宰治の記念碑がある。 建立された当時の写真や記事からは、記念碑の除幕式にはまだ存命であった妻の美知子さんや友人の檀一雄も参加し、盛大に行われたと記録されているが、現在は記念碑の周りは草で覆われ、うすらぼけた展望台とともに記憶の彼方に押しやられている感がある場所である。それでも東津軽郡の中では太宰治という有名どころの文学碑であるものだから、参加者全員で両側に草の生い茂る小道を歩き、その道の終わりにある記念碑を見学した。
 記念碑で休憩をしているとき、私は一人の参加者に、国語の専門は何なのかを尋ねた。その女性教諭は近代文学であると答えたものだから、私自身も近代文学を専攻していたので嬉しくなり、卒業論文は誰だったのかをさらに尋ねた。するとその女性教諭は妙に落ち着きがなくなり、視点が左右に動き、すぐには答えない。私もどうしたものかわからず妙な間があったのだが、その女性教諭は決まり悪そうな表情で目の前の記念碑を指さした。私は全てを察し、にこりと笑い、自分もそうだと打ち明けた。
 太宰治を卒業論文の対象にしたということをすすんで言うことは照れくさい。何だか若気の至りを打ち明けるようで、だから「今ではまったく読まないのだけど」なんて前置きをしながら話したりする。これが夏目漱石だったり川端康成だったりするならば、少々もったいつけながら話すかもしれないが、太宰治ならば前述したとおり、少し口ごもり、それでも話さなければならない状況になれば「ちょっと失敗しました」といったふうで、しようがなく話すといった案配である。そもそも、そんなふうに勝手にもったつけてしまうような気質の人が太宰を卒業論文の対象にしてしまうのかもしれない。しかし、そんなことがあってその先生とは共通の秘密でももったような感覚になり、その後随分と仲良くさせていただくことになった。
 最近は芸人さんの書いた小説が芥川賞を受賞し、作者の芸人さんが太宰治のことを好きであると公言しているため、「太宰が好きだ」というのはそれほど抵抗のあるものでもなくなっているかもしれない。私は仕事柄、青森市主催の読書感想文コンクールの運営に関わっているが、芸人さんが芥川賞を受賞した今年のコンクールでは、太宰治の「人間失格」を筆頭として、漱石、?外、藤村らの文学作品の感想文の出品点数が例年の数倍になった。今の子供は太宰治との出会いはこの芸人さんからかもしれないが、私にとっての出会いは函館での大学時代であった。
 
 昭和六十年の六月、十八歳の私は少し困っていた。今考えれば、悩みの原因は然したることではなく、何をそれほどに困難に感じ、悩まねばならなかったのか不思議なのであるが、「こうあるべき」と教えられて育ち、学業も運動も頑張ってやることが「正しい」という学校的価値に縛られていた私は、家を離れ、一人で生活し、物理的・精神的な親の縛りがなくなったこと、大学に入学し近代文学を専攻していた先輩方の多様な価値感と知識に圧倒され、影響されたことで、自分自身のことを自分自身で考えるという、至極まっとうなことに初めて直面していたのだと思う。私は入学してすぐに入部した運動部を辞めるか否かという、何でもないことといえばそう言えることで困惑していた。運動は嫌いではなかった。しかし、先輩方により見せてもらった文化の世界は、私にとって、たった二ヶ月で運動よりずっと価値のあるものになっていた。運動部に時間と金を費やすことはできないと考えていた。しかしながら、運動部の先輩方はとてもいい方ばかりで、入部したばかりの私にとても良くしてくれたし、同じく入部した同級生も頑張っていこうという気持ちに溢れていたので、自分が今この場所からいなくなることへの寂しさや罪悪感を嫌と言うほど感じていた。自分の意志で入部した運動部を、たった二ヶ月で辞めるという行為が、そのころの自分にとってはひどくしてはいけないことであり、自分のもつ価値観への背信行為であった。私は困った。両者を並行して行っていくことはこの先にある様々な状況を考えると選択肢としては無理なことであった。辞めるか、続けるかの二者択一で悩んでいた。
 今年五十歳になる自分が、その頃のことを思うと、いかにも小さなことであると思うのだが、未だにそのことを鮮明に覚えているのは、やはり「自分のことを自分で考え、自分で実行する」という一つの方法を実感を伴って体験した初めてのことだったからであると思う。自分の小さな成長の実感だったのだと思う。
 現在の自分が常に「自分のことを自分で考え、自分で実行する」ことを徹底している人間ではないことは十分に承知している。「自分のことを自分で考え、自分で実行する」ことを徹底することは、組織や個人的な人間関係、親類縁者と関わって生きる社会の中では、大きな覚悟がいることなのだ。そして私はそこまでの覚悟を持ち合わせてはいない。前例と慣習、保身的な価値観、旧態依然とした価値観に守られ、流され、自分で判断しないことは山のようにある生活である。しかし、私は思う。「自分のことを自分で考え、自分で実行する」ことはあるとき必ず求められることである。教育界ではよく使われる「不易と流行」という言葉であるが、その「不易」は時代の中で以前ほどの絶対性はなく、状況に応じて相対化されているのではないか。そのような社会の中で、もし絶対と感じることがあるとすれば「自分」であり、自分の肉体から導き出された考え・判断であり、実行するという事実だけなのではないだろうかと思うのである。その判断をする際に間違った、取り返しのつかない考えや判断にならないように大人は物事を教え、育てることが大切なのだろう。どうしようもなく緊急な場合を除いて、考え・判断するのは本人でしかなく、そこに至るまでの道筋をしっかり整えてやることが今、改めて大人に求められているのではないかと思う。
 
 さて、私といえば、自分自身の初めての混乱に困り、悩み始めてどのくらいたったころだろうか、きっと何か変化のきっかけを求めていたのであろうが、大学の近くの百貨店に店舗をもっていた本屋であったか、駅前の本屋であったかもう定かではないが、何気に本を求めてふらついていた。悩んだときに解決を求めて本屋に行くというのは今では想像がつかないだろう。(当時でもどうなのだろうか。)しかし、まだその当時は「生きる」ことと「文学」がつながっていた、つながっているのではないか、ということがどこか信じられていたように思う。私自身は大学に入学するまで、当時何となく分類されていた「純文学」に属すような作品をほとんど読んだことはなかった。もっぱら内外の推理小説ばかりを読み、そのうち江戸川乱歩を入り口として戦前戦後の「探偵小説」と呼ばれるジャンルに傾倒し、創元推理文庫の「探偵小説全集」なんかを読み漁っていた。そんな多少偏った読書生活の高校生でも、偏った本を読みながら徐々に読書の範囲を広げ、格好をつけていたのだろうが「文学界」という文芸誌を何度か買っていた。買った「文学界」のいずれかに「文学界新人賞」が掲載されていて、作品名を「川べりの道」といった。生意気と格好だけで文学界を買った私であるが、この作品だけは何だか好きで題名も作者名もよく覚えており、作者はその後多くの作品を出版し、私としては同時代の感覚をもった作家の一人となったのであるが、後年、自殺してしまった。作者は鷺沢萠さんだった。
 
 本との出会いとは、まさに「縁」なのかもしれない。本屋にはたくさんの本があり、そのたくさんの本の中で出会う本が長く自分の思いや記憶の中に存在し続けるときがある。私はその並べられていたたくさんの文庫本のコーナーで、黒い背表紙の文庫本が目にとまった。題名を「思い出」といった。作者は太宰治であった。太宰治の作品を探していたわけではない、太宰治についても、小学校の頃に道徳の時間に「走れメロス」を読んで以来、青森県出身の作家であることは知っていたけれども、何も読んだことはない。その作家の、しかも広く知られている「人間失格」だったり「斜陽」ではない作品に目がとまったのはなぜかわからない。それは「縁」だったのだろうし、購入した私はそれを読むことで運動部を辞めることを決め、その後の大学時代の読書の礎となるとともに、大学生活そのものの根っこにもなっていったように思うのだ。
 
 大学在学中、三月になると卒業し、本州に帰る先輩方を随分と見送った。青函連絡船の見送りのデッキに立つと、連絡船のデッキとちょうど視線が一致する。出発前、岸壁に接岸しているときはすぐ目の前にいる先輩が、出発のドラがなり、少しづつ少しづつ離れていくと、もっているテープがやはり少しづつ少しづ伸びていき、手を振り別れの言葉を叫ぶ先輩の声が、汽笛に重なって聞き取りにくくなり、そうして連絡船は船首を進行方向に向け、デッキの先輩方の姿が見えなくなった。連絡船はスクリューの波を残しながら見る間に真っ直ぐに進んで小さくなっていった。
 私も卒業のときはこうして同期生や後輩に見送られながら海を渡るのかと思っていたら、卒業の年は青函連絡船が廃止になり、海峡線が開通していた。私は電車で青森に帰ることになった。遠くの地域から来ていた多くの同期生を見送り、私は本州に帰る最後となっていた。函館駅のホームから新しい海峡線の電車に乗り込んだ。デッキの自動ドアが閉じ、見送りに来てくれた道内出身の同期生のU君が手を振っていた。電車が動き出し、あっという間にU君が見えなくなってしまった。
 
 大学を卒業して青森県に教員として就職してからすぐの一年間は何度か函館に足を伸ばしたのかもしれないが、その後、全く行くことがなくなった。仕事が忙しかったこともあるし、社会生活の大変さの中で、楽しかったことばかりが思い出される函館に行くことは何だか辛いことのように感じていた。せっかく開通した津軽海峡線にも乗ることはなかった。青函連絡船で四時間半の時間が、鉄路が通り二時間半ほどになり、函館が近くなったのに随分と皮肉なことであった。
 
 そんな私であったが、函館を離れ二十数年がたった頃、私が関心を持っていた教育関係の民間教育団体が、函館市を会場にしてセミナーを開催することとなり、何とは無しに敷居が高くなっていた函館市であったが、この機会に函館を再訪してみようと決意し、セミナーに参加するために津軽海峡線に乗車した。
 青函トンネルを出て、北海道に入った。断続的にトンネルが続いた後、進行方向右の窓に海が広がった。「木古内」の駅を過ぎ、右手に見える海の先に、雪をかぶった真っ白い函館山の姿が輪郭線をはっきりとさせて見えてきた。私は懐かしさや後悔や思い出でやらで胸が痛くなった。函館が近づいている、思いの詰まった函館に行くのだと、列車の車窓の向こうに見える函館山をずっと見ていた。
 翌年、二十数年ぶりに大学時代の関係者と連絡をとり「正式」に函館を訪問した。その後続けて同級生や先輩に会うために訪問し、旧交を温めた。
 二十七年の四月には、大阪に住む姪が母校の大学に入学することになり、その引っ越しの手伝いに函館に行った。姪の住むこととなったアパートは大学の記念館から道路一本を隔てて建っている学生向けの新築のアパートで、三十年も前に私が自転車で大学に通学した道路沿いにあった。引っ越しの手伝いついでに大学の校地内を散策し、ついでに校舎内にも入り、さすがに三十年もたっていると、どこにどの講義室があったのか忘れてしまっていることが分かり、四年の間、毎日生活していた場所なのにと思うと、歳月の長さを改めて感じた。
 
 私にとって「函館」の地は、そこでの四年間の生活の記憶、思いとともに、宝箱か桐箱かに大切に保管してしまった場所となっていた。それは鉄路で繋がっているとはいえ、海という物理的なものにより隔てられているせいかもしれないし、あまりに幸福な時間であったために、時がたつにつれ取り戻すことができない切なさを伴った記憶になっていったのかもしれない。「函館」は近くて遠い場所になっていた。
 しかし、近年の状況の変化から、「函館」は遠く大切に保管されているものから、日常の地平に繋がるものになってきた。これは歳月と年齢のせいかもしれないが、私はそれをよいことだと感じている。いつまでも箱にしまいこんでいては何の進歩も進展も新たな展開もない。海で隔てられているとはいえ、隣の自治体でであることに変わりはなく、何より自分が四年間を生活した場所であり、そこで様々な経験をさせてもらった場所であり、その後の生活の土台を作ってくれた場所であるのだから。日常の中に引っ張り出すことが大切なのだ。
 平成二十八年の三月には、新青森駅から新函館北斗駅に新幹線が開通する。新幹線で約一時間、その後在来線に乗り換えて函館駅まで最短で十五分であるという。低気圧とともに北上した四時間半を思えば、その変化に驚く。せっかくだから「近くて遠い函館」を「近くて近い函館」にしていきたいと思うのだ。(しかし、新幹線の運賃を考えると一概にそうもいえないのが難しいところであるが・・・)
 
 最後に一つだけ。
 大学に入学したての一年生の初夏の頃であった。小さな困難も一応の決着をし、自分の興味関心のあることへの知識を、より多く学ぼうと思い描いていた頃のことである。私は中道から自転車を使い、入舟町の函館どっく前の電停から少し、坂を登った所にいた。入船町には、文学や映画やその他、多岐にわたって示唆をしてくれた先輩の家があり、私はことあるごとにお邪魔させて頂いていた。多分、休みの日であったと思う。昼過ぎ頃に先輩の家を訪ねたのであったが、先輩は不在であった。時間が空いたので、外人墓地あたりから元町を巡って帰ろうと思い、高龍寺の方向へ自転車をこいでいった。途中、坂がきつくなってきたので自転車をおり、押しながら歩いていた。その時、前から、歳のころは六十近くであったのだろうか、一人の男性が近寄ってきた。私は道でも聞かれるのかと思い、詳しいことは分かりませんが、などと答える台詞を考えながら、少し立ち止まった。その男性は、私の正面に立ち、「一つ、どうぞ」と言って、サクランボをくれた。私は突然のことで、どう対応して良いかわからず、とりあえずお礼を言ってサクランボを受け取った。男性は言った。
「今日は、桜桃忌なので。」
 その日は六月十九日であった。男性は私にサクランボを一つ手渡し、坂を下っていった。私はこんな男性がいる「函館」という街が、なんと素晴らしい街であることかと思い、男性からもらったサクランボを口にしながら、自転車に乗り、坂を駆け上がっていった。 
 
 
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