野球だいすき見るのもするのも
能瀬明
 
 
 ピッチャーの指から白球がはじかれた。うなりをあげながら高速で回転する硬質ゴムの球体は、まばたきのスピードより速くわきの下をすりぬけ、キャッチャーミットにたたきつけられた。ミットの牛革が、軟球とぶつかりあう重い破裂音。内角高目一杯、胸元をえぐるナチュラルのシュートボール。間違いなく、これまでに対戦した中では最高のレベルの球だ。審判が高らかにストライクを宣する。速球派。打席の五〇センチくらい手前から、ぐいっとホップするように球速が増す。おまけにナチュラルシュートとは手がつけれれない。
 いわゆる速球派の中にも何種類かのタイプがあって、それはまるで状況に応じて戦い方を変えるボクサーのようだと思う時がある。軽やかなステップで距離を置きながら、相手の打ち終わりのすきをねらって、ソリッドなパンチを繰り出すアウトボクサータイプ。相手のパンチをかいくぐったとたんに爆発的なダッシュでふところにもぐりこみ、ハンマーのようなパンチで粉砕するインファイタータイプ。大まかに分ければこの二種類だが、もちろん臨機応変に攻め方は変わるので、バリエーションは幾通りにもなる。今日の相手投手は爆発的なダッシュ力をもつソリッドパンチャーと言ったところか。いずれにせよ手がつけられないことに変わりはない。
「バッチびびってんぞ」
 野球部出身者独特の言い回しで声をかけながら(はたしてこれが日本語と言えるだろうか)キャッチャーがピッチャーに返球する間に、オレは次の策を考えなければなるまい。(ちなみに「バッチ」とはバッターのこと、「びびってんぞ」は正しく言いかえると「びびっているぞ」となる。)
 ごく普通に攻めるなら、次は外角低め、ボールゾーンに逃げる変化球で打たせて取るのが定石というもの。速球に浮足立った多くのバッターは、追い込まれるのを恐れるあまり、思わずゆるい球に手を出してしまう。この球を逃せば次はあの快速球だ。あの球は打てそうにない。ならばこのゆるい球で勝負をかけるしかない。しかしいかにも打ち気をそそるようなそのゆるい球は、外角からするりとボールゾーンへ逃げる。打者の多くは投手に打ち取られるのではない。これを逃したら次は速球だぞというような、想像力による恐怖に負けるのだ。ならば恐怖に負けないための策はあるか。方法はひとつしかない。相手投手の一番いい球をねらうのだ。
 俺は構えを小さくした。バットを頭の後ろで斜めに倒し両ももを絞り込むように内またに構える。その姿はまるで、あたし野球よくわかんないのぉ、お願いだから委託しないでね、というようなレクリエーションソフトボール的球技未経験女性を連想させるらしく、相手ベンチからどっと失笑がわいた。
「ヘイヘイ、バッチなよなよしてんじゃねえよ」やんやとヤジの声が上がる。
「何だありゃあ、オカマかよ」
 オレは体も大きくないし腕力もない。おまけに顔の掘りが深く、目鼻立ちがはっきりしている上、ひげのソリ後も遠目に青く見えるので、よくオカマとかゲイとかに間違われるのだが、実はいたってノーマルで、好みの女の裸の前ではいつでも一〇〇パーセント臨戦態勢に入ることができる。その証拠に味方ベンチのメンバーはだれ一人笑わないし、むしろ固ずをのんでオレの内また打法に見入っている。彼らは知っているのだ。オレがこのなよなよした構えから数々のクリーンヒットを生み出したことを。そしてオレが実は、ほとんど宿命的な女好きだということを。
 返されたボールを真横からなぎ払うようにして受け取ったピッチャーは、あからさまにニヤリと笑って見せた。
「ヘイヘイ、バッチこい、もってこい」
 内野手が大声で叫ぶ。
 何がヘイヘイだ。うるせえんだ、ばか。オレの打球が美しい放物線を描いて、ライトセンター間に飛ぶのをオレは鮮明にイメージすることができた。この筋金入りの野球部出身バッテリーは、きっと青くなって黙りこむだろう。オレのバットはそのイメージを実現するために振り下ろされるのだ。そう思ったとたん腹の底から笑いが込み上げてきた。実際に打席に立ったときの、どうしようもなくわくわくする気持ちは、ブラウン管を通して野球をみているだけでは決していることができない。実際に球場に足を運んでみるのはいい手だが、それでも理解からは遠く隔たっている。傍観者には死ぬまで分からないのだ、この興奮と緊張が。
 
 幼いころ、本物の野球を見た。両翼九〇メートルの、当時最大級の広大な球場で。
 人工芝の緑がこんなに美しいものだとは思いもしなかった。
 しかし何より驚いたのは、そのスピード。ピッチャーがほおる一四〇キロ台の速球は、肉眼では全く捕らえられなかった。ピッチャーはまるで、キャッチャーに向かって、ただ投げるまねをしているように見えた。たちの悪い冗談だ。へい、ピッチ、ちゃんと投げろよ。しかし、投球動作が終わるやいなや、バチンという、ぶあつい革が張り裂けるようなものすごい音がひびいた。キャッチャーミットには、確かに白球がおさまっている。彼は本当にボールを投げているのだ。オレには見えないだけの話。ここはなんて世界なのだろうと思った。ライトスタンド、アルプスの席からの遠目とはいえ、これはあまりにもひどい。理不尽なスピードだ。テレビで見るのとは全然違う。本当はこんな気違いじみた速度の中で、野球は行われていたのだ。
 隣に座っていた父に話しかける。
「ねえ、父さん」
「なんだ」
「すごく速いんやね」
「何が?」
「球が」
 父はゲラゲラ笑った。
「初めて見るんやもんな」
「うん」
「びっくりしたやろ」
「うん、びっくりした」
 この速球をジャストミートしたときの、打球の速度はいったいどのくらいなんだろう。何キロメートルとかいった数字ではなく、実際にその速度を目の当たりにしたときの感触が、どんなものか知りたいと思った。全く想像を絶する。野球なら当時おれだってやっていた。だから、ベンチで見る球のスピードと、実際に打席に立って見る投球のスピードが、全然違うことぐらい知っていた。離れれば離れただけ、目に映るボールのスピード感は失われていく。何だあんなへろへろだま、簡単に外野まで運んで見せるぜ、なんていいながらベンチで眺めていた球も、実際に打席に立つとまるで違って見えるのだ。すぐそばで見る球は、ぎゅるぎゅると音をたてながらあっという間に通り過ぎる。そう、瞬きの間に。そうだ、リトルリーグの野球でさえそうなのだ。遠目に見て、投げた球さえ捕らえられないこの本物のスピードを、至近距離で目の当たりにしたら、一体どんな感じなんだろう。昔、打撃の神様と呼ばれた男は、ピッチャーの投げる球が止まって見えたらしいけど、そりゃ絶対うそだな。でも本当だったらどうしよう。そんな奴はきっと人間じゃないよ。
 
 さっきまでへいへい繰り返し叫んでうるさかった内野手が黙ったかと思うと、ピッチャーはゆっくりと二球目の投球動作にはいった。ゆっくりとはいえ、背筋にバネが入っているような、いかにもリズミカルな動作。大きく振りかぶったとたんに左足がパシッと土をけって高く上がる。けりあげられた土が舞う。背番号が見えるかと思うくらい、上半身がぎりぎりまでめじられた次の瞬間、バチッと指先がちぎれるような音をたてて、白球がバネじかけのマシンの背筋から打ち出された。球種の見分けなんてとっさにはつかない。目を皿のようにして球を追う。内またに引き絞られた両ももの筋肉は、なにもゲイを気取っているわけじゃない。瞬間的な爆発のために、体中の筋肉をスイングと逆方向にねじりこんでいるのだ。矢を放つために弓をぎりぎりまで引き締めるのと同じこと。特に非力なバッターは、最短距離でバッドのしんに当てなければボールは飛んでいかない。まずはぶち当てる、あとはバットが勝手に回ってくれるだろう。瞬間の爆発。
 ストレートだ。空を切り裂くうなりを上げて豪球が向かってくる。左足を思い切りふみこんでおれは打ちにいった。スパイクが土をかみ、ざくりとえぐる。引き絞った力を一気に解き放つ。爆発する筋肉。引き絞られた腰が、ビュンと高速で回転する。マシンの強力なバネ。空を裂いて一気に飛び去る矢。バットを肩口から斜めに一気にふりおろす。うわあ、なんじゃこりゃあ、は、はやい。打席前の”のび”が違うのだ。げげ、だめだ、くいこまれた。かまわずバットを振りぬく。ボールはバットの上っ面をはねて、バックネットにぶちあたった。ボールがバットをかすめる鈍い音と、がしゃーんという大きな音がほとんど同時。すぐさま後ろをふり返ると、バックネットがブルブルと揺れている。なんてストレートだ。すさまじいストレート。にゃろお、やるじゃねえか。バットを握った手がびりびりとしびれている。それでも、わくわくする気持ちは消えない。ぴっくぴくと両手の筋肉がけいれんしている。血液が沸騰しているような気がする。くうーしびれちゃう。このやろう、絶対に打ってやるからな。
 
「ねえ、父さん」
「なんだ」
「本当にこんなところまで、ボールが飛んでくるんかな」
「なんで?」
「だってすごく遠いじゃん、バッターボックスからここまで」
 ライトスタンドから見る選手達は、十五センチくらいの大きさだ。テレビ画面の中ではいつも主役は選手達だが、実際に球場で見ると全然印象が違う。細々と動き回る彼らよりは、フィールドの鮮やかな緑色のほうに目を奪われてしまう。
「そうだな」
「ねえ、だれかホームラン打たないかな、ここまで」
「そうだな」
 父は、当時吸っていたハイライトをぷかりとふかしている。
「ねえ」
「なんだ?」
「ホームランのボールが、ここまで飛んできたらどうしよう」
 父がまたゲラゲラと笑う。
「ぶつかるんじゃないかと思ってるのか?」
「そう」
僕は本当に不安だったのだ。幼いころはどうしてあんな心配事が多かったのだろう。今にして思えばまるでたわいのないことばかり。でも、当時は本当に心配だったのだ。そういえば高名な心理学者がいっていた。一定の発達段階を越えるまで、子供はみんな神経症的な心理状態にあるって。毎日が不安で仕方ない。その不安はほとんどが肉親との決別と直結しているそうな。ほんとかな。
「大丈夫だよ」
 父が笑いながら僕の顔を見た。
「なんで?」
「球場は広いんだ、見てのとおり」
「うん」
「球場にはたくさんの人がいる、そうだろ」
「いる」
「何万人といる人の中で、わざわざお前に向かってボールが飛んでくるわけがない」
「でも、もしもってことがあるだろ」
「大丈夫」
「なんで?」
「第一、ホームランが出る日のほうが少ないんだ。そうそう見られるものじゃない」
「………………」
「もしもホームランが出たとしても」
「うん」
「ライトスタンドに飛んでくるとは限らない、わかるか?」
「わかる」
「ライトスタンドに飛んできたとしても、お前に当たるとは限らないだろ」
「うんうん」
「な、だから、ボールはお前にはぶつからない、わかったか」
「うん、わかった」
 父はまた、ハイライトをぷかりとふかす。
「でもね」
「なんだ」
「僕はホームランが見たいんだ、それも、できるだけ近くで」
 父はやれやれという顔をした。それから、ムスッと黙り込んでしまった。今度は父が怒ってしまったんじゃないかと不安になる。昔から短気な所があった。
「ねえ」
「……………………」
「ねえ、父さん」
「……………………」
「ねえってば」
「よし、わかった」
 突然大声。びくっとしてしまう。我ながら情けない。
「な、何が?」
「もしもホームランボールが飛んできたら」
 と、突然父は僕を抱き抱えた。おおいかぶさるように。
「ほら、こうやればボールは当たらない」
 今度は僕がゲラゲラ笑った。
 
「オッケーオッケー、バッチふり遅れてるよ」
 キャッチャーがいいながら返球する。うーむ、そのとおり、ふり遅れている。ならばふり出すタイミングを速くすればいいだけなのだが、ゆるい変化球がきたときに対応できるだろうか。打席を外して、軽くスイングしながら次の策を練る。これまでのバッターに対して、このピッチャーが見せた球種は、ストレートとカーブ。カーブはストライクゾーンからボールゾーンへ、ドロンと落ちて逃げる。ストレートがあのスピードだけに、ついていくのは実に難しい。なんだ、まるっきり歯が立たないんじゃないか。よわっちゃったな。
 
 キャッチャーの顔をちらりと見る。彼もこっちを見ていた。しばらく目があった。じっとお互いの目を見た。うかがう目。
 おれは余裕しゃくしゃくといった顔をして、スパイクの土をバットでたたき落とした。こんこん。ゆっくりと。こんこん。
 
 うそのような話だが、ホームランボールは本当に僕に向かって飛んできた。
 打ったのは、当時、奇妙なかまえでホームランを量産していた左バッター。ピッチャーが振りかぶったとたん右足を高く上げてボールを待つ。片足の不安定なかまえから、タイミングを合わせて思い切り踏み出す右足のパワーを、見事に腰にのせてボールを運ぶ。メジャーリーガー達は、フラミンゴスタイルと呼んでその打法を絶賛した。
 アジア産の優美なフラミンゴ。
 しかしその打球は、その名にそぐわない凶暴なスピードと飛距離を持つ。
 しなやかで美しいかまえに目を奪われていたその瞬間だった。
 バチンと何かが破裂するような音をたてて、ものすごいスピードでボールが向かってきたのだ。
 おい、冗談だろ。本当かこれ、うああああ勘弁してくれよおおお
 一直線に飛んできた白いボールを、僕は今でも忘れられない。
 ジャストミートされた本物のスピード。
 僕はそのスピードを確かに目にした。
 空気を切り裂く音を確かに聴いた。
 九〇メートルを一瞬でゼロにする爆発的な打球を。
 僕の周囲の観客が、小さな悲鳴を上げていっせいに飛びのいた。
 父の手が僕をおおいように伸びてくる。
 まるでスローモーションを見ているようだ。周囲の人々の動きは異様にゆっくりしていて、まるで現実感がない。首筋の後ろがチリチリと焼けているような気がした。鼻の奥で、きな臭いにおいがする。このにおいは以前もかいだことがあるぞ。なつかしいにおい、そうだ、思い出した、むかしすべり台の上から地面におっこちたときに、このにおいをかいだんだ、あのときも、すごいスピードで地面が迫ってきたんだ。
 恐怖にかられて、目をおおいそうになる。
 でも僕は目をふさがなかった。
 ふさぐひまもなかったのだ。
 そのとたん
 ボールはゴオオンという音を立てて、僕の目の前に立っていたライト側ポールにぶち当たった。ゆっくりとフィールドに落ちる。ツーバウンド、スリーバウンド。
 次の瞬間、球場が揺れるような歓声に包まれた。だれもが客席から飛び上がっている。耳をふさぐような大音量の叫び声、悲鳴、父も叫んでいた。
 僕は立つことができなかった。
 目の覚めるようなホームラン。
 ぼんやりと眺めていただけだった。
 見とれていたのだ。
 破壊的で暴力的で、しかもなんて美しい打球。
 体がびりびりしびれていた。
 これが本物の野球だ。
 この瞬間を一生忘れるまいと思った。
 
 決め球もストレートだった。
 予想どおり、タイミングはどんぴしゃ。
 おれは思い切りふり抜いた。
 セーフとかアウトなんて実はどうでもいいのだ。
 血液がぐつぐつ沸騰するような感触を味わいたいだけ。うなりを上げて飛んでくる速球を、さらに上回るバットスピードで打ち返す。
 白球は白い線になって飛んでいくだろう。
 おれは土をけって走り出すのだ。
 
 
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