あなぐま
沼山隆一
 
 けものみちを歩いていくと、あなぐまに会った。あなぐまは、妙によそよそしかった。どうしたんだろう。
「どうしたんだろう。今日は、妙によそよそしいね。」
 僕は尋ねてみてから、尋ねなければよかったと思った。なんとなく。でも、僕の疑問は既に音声言語となって僕の口から解き放たれ、空気中を振動しながら、あなぐまの耳に届いてしまったらしく、あなぐまはますますよそよそしくなった。
「こ、こ、これか、から、と、冬眠、に、は、入るんです、よ。」
 あなぐまは、いつものようにどもりながら答えた。いつもそうだ。あなぐまという奴は、一匹の例外なく、舌がうまく回らない。みんな、口が小さいのだろう。それとも、彼らの性格からくるものなのだろうか。
 そういえば、この前あなぐまと会ったのは八月だ。いや、七月か。確か、夏の暑い日だった。
「この前会ったのは、確か八月だよね。七月だったっけか。」
「な、な、夏のあ、暑い日、で、でしたね。」
 よく見ると、この前会った時に比べて、あなぐまはでっぷりと太っていた。まるで、置物のタヌキのようだ。もちろん、本物のタヌキみたいに、酒の徳利や帳面は持っていないけれど。ついでに言っておくと、すべてのタヌキが徳利や帳面を持っているわけではない。一人前に腹が出て、例のモノもブラブラさせるだけの大きさがなければ、免許が出ないらしい。タヌキたちの世界にも彼らなりのプライドがあるろうし、免許を持たないタヌキはそれなりに悩みを抱えているのだ。
「ずいぶんと丸く太ったね。まるで、タヌキのようだ。」
「や、やめて下さい。あいつらと一緒にしないで下さい。」
「ご、ごめん。そんなつもりじゃなかった。本当だよ。悪気はなかった。心にもないことを言ってしまった。謝るよ。」
 心にもないことを言えるはずもないが、僕は、平謝りに謝った。知っての通り、あなぐまたちはタヌキと間違えられるのを何よりも嫌がる。あなぐまにだって、あなぐまなりのプライドはあるのだ。
 あなぐまは、怒ったときにいつもやるように鼻をふんふんいわせていた。
「ほ、ほんとうですね。」
 僕は、ふんふんいっているあなぐまの鼻の穴を見ながら、「本当だよ。信じてくれ。悪気はなかった。」と、静かに言った。あなぐまを怒らせたら、やっかいなことになる。
 ある人は、あなぐまから毎日電話がかかってきて、留守電にしたり、番号を変えたりしたけどおさまらず、ついに引っ越ししてしまった。またある女性は、通勤途中や買い物、デートの遊園地にまであなぐまに尾行され、泣きながら謝ったのだそうだ。
「わ、わかりました。あ、あ、あなたはそんなひ、人じゃな、ないですよ、ね。し、知っていますよ。」
 どうやら、大丈夫だ。「わかるだろう、僕はそんな人間じゃない。それより、ずいぶんと太ったね。」あなぐまは、まるで水道の蛇口につけて栓を少しずつ開いて、パンパンになるまで水を詰め込んだゴムの風船のように、丸々と太っていたのだ。きっと、冬眠に備えて毛皮の下には脂肪分がたっぷりついているのだ。とても美味しそうだ。美味しそうだ?
「美味しそうだな。」
 僕は小声で、そうつぶやいた。
 
 今思えば、僕はちょっとお腹がすいていたのかも知れない。気弱なあなぐまに対して劣勢に回った自分に、腹を立てたのかも知れない。ぼくは、飢えていたのだ。それが肉体的な飢えなのか、精神的な飢えなのか、今でもよくわからない。とにかく僕は、あなぐまを食べた。きれいに皮を剥いで、血を抜いて、よく焼いて、そして食べた。
 あなぐまの肉はどんな味だったか、殆ど印象に無い。けれど、肉についていた脂身はとても旨かった。僕は普段は脂身を残すのだけれど、あなぐまの脂身は恋心のように僕の舌の上ですうっと溶けてなくなってしまった。気がつくと、僕は脂身ばかりを食べていた。以前はあなぐまのパンパンに張った腹だったものは、僕の体の一部に変わった。すべては流転し、世界は変化し続ける。僕の腹もまたいつか、あなぐまの腹になるのだ。
 
 次の日、朝目覚めると僕は腹に異常を感じた。どうやら食べ過ぎで腹をこわしたらしい。それから一週間、僕は腹痛と下痢に悩まされた。もちろん、これがあなぐまの呪いであるのは明らかだった。その日から少しずつ、僕の腹はあなぐまの腹になっていったから。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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